木枠にキャンバス布、油絵の具、パテ、水性塗料、ビニール、Tシャツ。コンセプトは、遊びと見立て。日々、印象に残った形体や記憶の中の物をメモするためスケッチ帳を活用している。また平面のスケッチだけではなく小さいマケット的な物もある。それは”立体素描”と自分で名付けているのだがとにかくネタを大雑把に形に残しておく。そのような細々としたネタがある程度溜まると制作に入るのだが、キャンバスに向かう際は下図を用意せずにスケッチ帳も極力見ないようにして、素描するときの感覚で着地点を決めずに絵の具を塗り始める。そして描きながら画面を90度づつ回転させたり、天地を逆にしたり、描いたものをほぼ消してみたりして、何度か”画面を壊す”作業を意識的に挟むようにしている。自分の制作において”一旦壊す”ことはイメージの硬直化を防ぐとともに偶発的な効果を呼び込むという点で必要だと思う。また偶然にして生じた画面の状態に呼応させて、その場その場で次の一手を考えることも絵画制作の醍醐味だと思う。(これには単に計画する事が苦手という個人の性格的な側面も大いに関係しているのだが、、、。)なぜこのようなある種、まわりくどいプロセスを辿るようになったかと言えば”作家が画面上の全てをコントロールし、Manegeし得る”というストイックな考え方で制作する事に対して、非常な息苦しさを覚えたからだ。画面上での選択は全て作家自身の判断によってなされるのだから、そこで行われる、つまり画面上で描かれるものは作家が全てコントロールしていると言えば言えるし、実際そうなのだが、”なんとなく”、”偶然に”、”深く考えない”で手を動かしてしまう事も実際には沢山ある。つまり何が言いたいかというと、画面の全てをコントロールしようと思うと失敗も多くなり、制作する気力も減退するので、”最近は自分が描いた”というよりは”画面は自分か誰かが残した痕跡”くらいの軽さで、絵画を捉えるようにしている。立体制作についても同様で、例えば円柱を作ろうとして作業を開始してその円柱が完成する。初めから円柱を作ることを目的にしていたのだから出来上がったものには感動も気づきも全く感じられない。そこでそれを2つに切り分けて中に何か詰める、あるいは巾着などを作る際にするように裏と表をひっくり返してみたり、押し潰して別の物とくっつけるなどしてやはり”壊す”作業を挟むようにしている。そのように作業を繰り返し一度は完成と思っても、例えば垂直のものを横倒しにしてみたりして、可能な限り作り始めの意図や思惑から逸れた上で面白いと自分が思う形態を探っている。