梓川のほとりの遊歩道を歩いたのはもう15年ほど前だった。自然界はある日突然に大変動で姿を変えることがあるが、それは人の社会の営みに比べれば、まだとても長いサイクル持つ。この15年で世界は大きく変わり、個人的にもいくつもの大きな変化を経験した。移ろいやすい下界の人間社会を眺め超然と存在する大自然に、人が安らぎを求めて身を委ねに遥々訪れるのは当然だろう。木々や山や川の寿命は人に比べれば永遠のように長く、その精神性(日本では万物に精神性や魂があると考えている)に畏敬の念を持つ。 日本人は工業製品や道具にも長く使われると魂が宿ると考え、針供養、包丁供養などを行い、用が済んだ道具の労を労い鎮魂をする。日本人は部分と全体を分離して考えない。実際分離などしていないのだ。都会生活の自然との分離の行き過ぎが人を病ませる。故に手軽に来れる大自然のサンクチュアリに人は最低限の整備を施して道を付けたのだ。