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  • CURATOR’s EYE

バスキアとは?グラフィティの申し子と呼ばれた画家の人生と作品

2023/05/17
TRiCERA ART TRiCERA ART

ジャン=ミシェル・バスキア。
2016年に実業家の前澤友作氏が約62億円で落札し、2022年には再びオークションに出品され110億円という超高額で落札された《無題》という絵画の作者としても有名です。
アーティストとしてのキャリアは約10年と非常に短い中で、およそ3000点を超えるドローイングと1000点以上の絵画作品を残しました。
現在もアートファンの注目を集め続けているストリートアートの申し子・バスキアの人生と作品をご紹介します。
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バスキアはどんなアーティストだったのか? - 概観

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日本では2010年代に前澤氏のニュースで話題になったバスキアですが、実際に彼が活躍していたのは1980年代前半のニューヨーク・ストリートカルチャーでした。
美術史の中では黒人アーティストとして最初期に評価された人物であり、その活躍はアフリカン・アメリカンから世界に広まった音楽であるジャズ・ミュージックの美術バージョンとしても評価できるかもしれません。
同時代に活躍したアンディ・ウォーホルやキース・ヘリングとも親交を持ち、20代前半で爆発的な人気を世界レベルで獲得した稀有なポップアーティストの一人でした。
しかし彼のアーティスト活動、ひいては人生そのものも1988年に27歳という若さで突然の終わりを迎えます。ヘロインのオーバードーズによって亡くなったと言われています。
彼は限られた時間の中でも膨大なドローイングおよびペインティング作品を残しました。「王冠」や真っ黒いシルエットとして描かれる自画像のようなモチーフ、さらに解剖図や化学式といったサイエンティフィックなモチーフを取り入れた独特な表現で現代の美術愛好家にも根強い人気を誇ります。


バスキアの幼少期から青年期まで

幼少期

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ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)は、プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれました。幼少期から絵を描いていたと伝えられており、母親の影響も大きかったと言われています。母は、バスキアを地元の美術館に連れて行ったり、ブルックリン美術館のジュニア会員に登録させるなど熱心に美術教育をしていたことがわかっています。
バスキアは早熟な子供で、4歳までには読み書きを習得しました。小学校ではマーク・プロッツォという友人と出会い、2人で絵本を制作するなど、アートに関する才能も幼少期から見せていたようです。

バスキアの人生を変えた事故と「グレイの解剖図」

1968年、7歳の時に、バスキアは車に轢かれる事故に遭いました。
腕を骨折し、内部損傷も負い、脾臓の摘出手術を受けることになります。
入院中、母親は彼を楽しませるために、医学生の必携書としても有名な『グレイの解剖学』という図版が豊富ながらも学術書である解剖学の教科書を持ってきました。実は、この「GRAY」という名が、後に彼が結成することになるノイズ・バンドのバンド名になります。
また、人体解剖図という医学的イメージは幼いバスキアの脳内に焼き付けられ、彼の作品中に頻繁に見られる皮膚を剥がされた人体模型のようなイメージの源泉になっていると考えられます。
gray's anatomy

スプレーペインティングの始まり

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高校に入学すると、相変わらずやんちゃをして一つ目の高校は中退しましたが、二つの目の高校(シティ・アズ・スクール)ではアル・ディアスという友人と一緒にSAMO (SAMe Old shit)というキャラクターを作って学校新聞に漫画を連載したりするなど、遊び心にあふれた活動を続けます。
そして、17歳の頃から二人で地下鉄やスラム街の壁などにブルックリンおよびニューヨークの伝説となる「SAMO」のスプレーペインティングを始めたのです。
その期間、バスキアとディアスの二人はSAMOをタグネームとして使い、詩的で風刺的な広告スローガン「SAMO© AS AN ALTERNATIVE TO GOD」などのメッセージを町中に描きました。
しかし、1978年6月にバスキアは校長にパイを投げるという行為により、17歳にして2回目の高校中退をすることになります。
この事件のせいで彼は父親に家を追い出されたため、アパレルの倉庫で働きながら夜な夜な街に出てグラフィティを描き続けました。そうこうするうちに1978年12月、ストリートで異質な存在感を放っていたSAMOに注目したビレッジ・ボイスというメディアがSAMOグラフィティに関する記事を掲載し、バスキアとディアスの活動が知られ始めます。

キース・ヘリングなどの仲間たちとのつながり

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1979年、18歳の時、バスキアはグレン・オブライエンが司会を務める番組『TV Party』に出演しました。
これを機に彼はオブライエンと仲良くなり、その後数年間、バスキアは定期的にこの番組に出演するようになります。
彼はニューヨークにあるスクール・オブ・ビジュアル・アーツ周辺でもグラフィティを描き始め、当時学生だったジョン・セックス、ケニー・シャーフ、後にバスキアと同じく時代の寵児となるキース・ヘリングとも親交を深めました。
haring

バンド「GRAY」結成、化学イメージへの憧れ

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同じく1979年4月、バスキアはパーティーでヒップホップに通づるマイケル・ホルマンと出会い、ノイズロックバンド「Test Pattern」を結成しました。
後にバンド名は、解剖学の教科書から採られた「GRAY」に改名されました。
他のメンバーにはシャノン・ドーソンなどがおり、彼らはCBGB、Hurrah、Mudd Clubなどの大きなクラブのステージでも演奏した実力を認められていました。
この時期、バスキアはバーナード大学で生物学を学んでいたアレクシス・アドラーとルームシェアをしていました。彼はアドラーの教科書からよく化学物質の図を複写して、コレクションしていたといいます。化学式の幾何学的なイメージは幼い頃彼の心をとらえたグレイの解剖図と同様に、バスキアの表現の中でも重要な要素となっていきます。


アンディ・ウォーホルとの最初の邂逅

ウォーホルとの出会いとグラフィティアーティストとしての名声

高校を中退していたため、20歳前後の時期バスキアはTシャツやポストカードの販売で生計を立てていました。
ソーホーでポストカードを売っていた時、美術評論家のゲルドザーラーと一緒にいるアンディ・ウォーホルを見つけ、昼食をとっていたレストランに押しかけてポストカードを売りつけたと言われています。唐突な始まりでしたが、後に共同で作品を制作するなど代え難い関係を関係を築くことになります。
その頃バスキアは高校時代からの友人ディアスと仲違いをし、ソーホーのストリートに「SAMO IS DEAD」と刻み込んでグラフィティのSAMOを封印。「ジャン=ミシェル・バスキア」としてソロ活動をしていくことになります。
さらにTV番組の出演の際に仲良くなったオブライエンの縁により、「Graffiti '80: The State of the Outlaw Art」という番組に出演するなど、徐々に徐々にバスキアの名声は全米に広まり始めます。
samo is dead

バスキア、名声の獲得

「タイムズ・スクエア・ショー」など展覧会での大成功

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1980年、展覧会「タイムズ・スクエア・ショー」に参加したバスキアは、ジェフリー・ディッチなどの様々な批評家やキュレーターに注目され、ディッチは「アート・イン・アメリカ」誌の1980年9月号の「タイムズスクエアからのレポート」という記事で彼に言及しました。
さらに翌年にはニューヨークの P.S.1 という(現在はMoMAニューヨーク近代美術館に併合されている)施設で開催された「ニューヨーク/ニューウェーブ」展でも大きな存在感を発揮し、これをきっかけにイタリアでの個展や売却が実現します。
さらに美術評論家のレネ・リカールがArtforum誌に「The Radiant Child」と題されたバスキアに関する初の長大な記事を発表するなど、1980 - 1981年の間にアーティストとして飛躍的な成長を遂げました。

1982年、国際展ドクメンタへの最年少参加

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イタリアのギャラリーとの交渉決裂などのトラブルはありつつも名声を高めていたバスキアは、現在まで続いている国際的なアートフェア「ドクメンタ」に1982年に参加します。この時バスキアは21歳、史上最年少で、この記録は今も破られていません。

ウォーホルとの共同制作

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1983年、ギャラリストのビショッフフェルガーがウォーホル、バスキア、そしてイタリア人アーティストのフランチェスコ・クレメンテに共同での制作を依頼します。
これは、翌1984年に開催されるロサンゼルス夏季オリンピックを記念したものでした。
ウォーホルは、60年代にアメリカのポップアートを牽引する存在でしたが、1980年代当時は人気が衰え始めていました。
バスキアにとっては憧れのアーティストとの夢のコラボレーション、邪推すればウォーホルにとっては若手の売れっ子の知名度を又借するような意味合いもあったのかもしれません。何にしろ二人は友情を築き、ウォーホルは再び絵筆を手に取りました。
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マドンナ、ガゴシアン、ヒップホップとの関係

ドクメンタへの参加後、バスキアは当時独立したばかりのディーラーとして活動していたラリー・ガゴシアンが作ったスペースをスタジオとして制作をしていました。のちにガゴシアンは世界でも有数のギャラリーへと成長していきますが、それにはバスキアの存在は不可欠だったでしょう。
さらに、この頃当時はまだ無名だった歌手のマドンナと付き合っていました。
ヒップホップとの関係も見過ごせません。同じグラフィティアーティスト仲間のポートレートを描いたり、ラッパーのRammellzeeやK-Robのレコードをデザインしたりしました。
その後も22歳でホイットニー・ビエンナーレへの参加やコム・デ・ギャルソンとのコラボレーションなど、数々の大きなプロジェクトを手がけ、名声は鰻登りとなりました。


成功の影:バスキアの1980年代後半

成功に伴う精神的苦しみ

1985年頃、彼は年間140万ドルを稼いでいました。加えてディーラーから4万ドルの一括支払いを受けており、まさにポップアート界のスターと呼んで良い地位にいたと言えるでしょう。
しかし、成功の裏では、彼の精神は不安定さを増していきました。
「稼ぎが増えるにつれて、彼はますます偏執狂的になりヘロインに溺れていった」
とのちにジャーナリストのシュナイアーソンは記しています。

1985年、「ウォーホルとバスキア:絵画」

1983年のコラボレーションからいくつかのプロジェクトを共同で手がけたバスキアとウォーホルでしたが、1985年に開催された「ウォーホルとバスキア:絵画」では徐々に広がりつつあった溝が決定的なものになります。
この展覧会では、批評家の評価もほとんどが否定的なものでした。


バスキア、晩年の活動

ウォーホルの死とヘロインへの傾倒

1986年頃、当時のガールフレンドだったジェニファー・グッドと共により一層ヘロインを摂取するようになります。これによりさらに中毒に拍車がかかったと考えられます。
さらに、1987年にウォーホルが胆嚢の手術を受けて亡くなると、バスキアは悲しみと罪悪感にさいなまれました。
死の前の18ヶ月間は、バスキアはまるで廃人だったといいます。ヘロインのオーバードーズにより、彼は1988年8月に永眠しました。
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バスキアの美術理論的評価

美術評論家のフランクリン・サーマンズは、バスキアが詩、ドローイング、絵画を借用し、テキストとイメージ、抽象と具象、そして歴史的情報と現代的な批評を組み合わせたと分析しています。
彼の社会的なものに関する言及は、植民地主義の批判と階級闘争を支持する観点から、鋭い政治的で直接的な批判を意味します。
彼はまた、西洋美術に根強く息づく古典的な伝統を解体し、グラフィティという新しい道具を携えて新たな美術史を作り出しました。

美術史家のフレッド・ホフマンは、バスキアの芸術家としての自己同定の基盤は、「外部の世界の知覚をその本質にまで絞り込み、それを創造的な行為を通じて外に向けて投影するというような、一種の神託のような能力」であったと考えており、彼の芸術は富と貧困、統合と分離、内面と外面の経験などの「示唆的な二重性」に焦点を当てていたと述べています。

もちろんバスキアに批判的な論陣をはる人物もいます。
1980年代に、美術評論家のロバート・ヒューズはバスキアの作品を不条理だと批判しました。
また、美術評論家ヒルトン・クレイマーは、まずバスキアが「クオリティ」という言葉の意味を理解していなかったと述べました。彼はバスキアを執拗に「才能のない詐欺師」「街中では頭の良いが他の面では無知な存在」と批判し、当時のアートディーラーたちも「バスキア本人と同じくらい芸術に無知だった」と主張しました。
しかし、こうした主張は一面的なものであり、現在はバスキアの仕事を肯定的に捉える評論家が大半だと考えられます。



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現代アートの歴史・楽しみ方・各アートジャンルの解説など、役に立つ情報を芸術大学卒業のキュレーターが執筆しています。TRiCERA ARTは世界126カ国の現代アートを掲載しているマーケットプレイスです。トップページはこちら→https://www.tricera.net