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ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作と人生をまるっと解説!

2023/04/26
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日本で人気の印象派の画家といえば、ルノワールやモネなど、優しい色彩で明るい光を描いた画家たちです。今回は、ルノワールの画業を振り返りながら代表作品を学んでいきましょう。
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幼少期から職人時代のルノワール

ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれました。
父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子でした。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身でした。

1844年、ルノワール一家はパリに移住しました。
移り住んだのはルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町でした。幼い頃から絵への興味を示していましたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃(9歳前後)、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学びました。
ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案しましたが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めたと言われています。
1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなりますが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなってしまいます。
ルノワールは、次に扇子の装飾を仕事にし、アントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェの有名な名作を複製した扇子を繰り返し描きました。
この時、ルノワールは、ブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールといった18世紀のロココ絵画に興味を持つようになったようです。その後、メダル制作の紋章描き、窓の日除けの装飾、カフェの壁の装飾など、職人としての仕事を次々と手がけました。
仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、1860年には、ルーヴル美術館で模写する許可を得ました。特に、色彩派と言われるルーベンス、ブーシェ、フラゴナールを好んだと言われています。
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シャルル・グレールの画塾で仲間と出会う

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ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入りました。ここでクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派と呼ばれる仲間の画家たちと知り合いました。
また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも出会いました。
グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家でしたが、生徒たちに、安い費用でモデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていたと言われています。
ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っています。
グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたという逸話が知られています。
グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていきました。
もっとも、ルーヴル美術館を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールとともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究しました。
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また、1862年4月にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けました。
ここでは、夜間のデッサンと解剖学の授業に出席していましたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたと記録されています。
当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する新古典主義が支配するアカデミーから排撃されていました。
エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残しています。
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1863年には、バジール、モネ、シスレーとともにシャイイ=アン=ビエールに行き、フォンテーヌブローの森で写生を行いました。
ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と聞きました。
この男は、バルビゾン派の画家ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャであり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになりました。
この年、グレールの画塾は閉鎖されたと言われています。


サロンへの挑戦

1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選しました。
1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選しました。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていません。
ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったと言われています。
1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作しました。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっています。
1865年、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くのマルロットに滞在しました。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになりました。
ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めましたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオと知り合い、交際するようになりました。
その後、度々彼女をモデルに絵を描いています。
1865年のサロンには、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選しました。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものでした。
この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品しています。
1866年のサロンには、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募しました。
この年、サロンの審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選しました。
この時期、ルノワールは、クールベにならってパレットナイフを使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作したと伝えられています。
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バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通りにアトリエを移し、ルノワールも共同で使用しました。
シスレーやモネもここをよく訪れたといいます。
南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にしました。
1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残しています。
バジールも、ルノワールの肖像を描いています。
マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈りました。


印象派展の開催

第一回印象派展

1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされています。
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そして、サロン開幕の2週間前である同年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催されました。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどでした。展覧会カタログは、弟エドモンが制作しました。展覧会の構成は、主にルノワールが取り仕切ったと言われています。

ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点でした。
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しかし、第1回展は、世間から厳しい酷評にさらされました。
第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表しました。
その中で、ルノワールの『踊り子』について、作者を「ギヨマン」と誤記しているが、人物が背景に溶け込むような不明瞭な輪郭を批判しています。この文章がきっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになったのは皮肉なことです。
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第二〜三回印象派展

1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、ギュスターヴ・カイユボットに宛てて、第2回グループ展の開催を提案しています。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられるでしょう。ショケもこれを後押ししました。
そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展が開かれました。ルノワールは、『習作』(『陽光の中の裸婦』)など18点を出品しました。
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しかし、以下のような厳しい批評に晒されます。

「さて、ルノワール氏には次のことを説明してほしい。女性のトルソー(胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色がかった緑色の斑点を伴う分解中の肉の塊ではないことを!」

— アルベール・ヴォルフ、『フィガロ』1876年4月3日



これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対する批評ですが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色や緑色を使って表現したのに対し、物の固有色を重視するアカデミズム絵画の立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示しています。
他方、エミール・ゾラは、ルノワールの肖像画を賞賛しました。


サロン(官展)への挑戦と復帰

ルノワールは、シャルパンティエの勧めもあって、1878年のサロンに応募しました。
「グレールの弟子」として応募した『一杯のショコラ』が入選しました。
このことは、シスレー、セザンヌ、モネのサロン応募を誘発することになりますが、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での考え方の違いが深刻になってきました。
当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在であり、労働者階級出身で経済的に苦しいルノワールには、サロンに入選して作品が売れることが切実な問題でした。
1879年のサロンには、2点が入選しました。
そのうち女優ジャンヌ・サマリーの立像は注目されませんでしたが、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』は、目立つ場所に展示され、称賛を受けました。
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これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度によるところが大きかったと考えられます。画中のシャルパンティエ夫人は、黒いドレスを着ており、それまでの印象派の美学に対する挑戦でした。
一時的に戸外制作もやめていたと言われています。
ピサロは、支援者ウジェーヌ・ミュレへの手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構なことです。貧乏はとても辛いですから。」と書いています。シャルパンティエ家でこの絵を見たマルセル・プルーストもその優美さを称賛しました。その頃から、肖像画の注文が増えてきたようです。


アルジェリア・イタリア旅行により古典主義へと回帰

1881年10月、ルノワールは、突然イタリアに旅立ち、まずヴェネツィアに滞在しました。
その地から、シャルパンティエ夫人に、「私はラファエロの作品を見たいという願望に取り憑かれました。」と書いています。
そして、11月21日には、ナポリからデュラン=リュエルに、「私はローマでラファエロの作品を見てきました。非常に素晴らしい。私はそれをもっと早く見ておくべきでした。……私は油彩画ならドミニク・アングルが好きです。しかしラファエロのフレスコ画には、驚くべき単純さと偉大さがあります。」と書き送っています。
ルノワールは、当初は、ラファエロを模倣するアカデミズム絵画を侮蔑しており、冷やかしのために見に行ったようですが、ローマのバチカン宮殿「署名の間」やヴィラ・ファルネジーナの『ガラテアの勝利』を見て感動したとも伝えられています。
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ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会いを機に、ニコラ・プッサンから新古典主義に至る絵画に興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視に転向しました。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代が訪れます。


ルノワール晩年の評価

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1890年には、レジオンドヌール勲章の授与を打診されましたが、辞退しています。
また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退しました。
この年、アリーヌと正式に結婚しました。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘のジラルドン通りにある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越しました。
1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描きました。
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そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はありませんが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っています。裸婦も好んで描きました。
1919年2月、レジオンドヌール勲章3等勲章を受章しました。その年、ルーヴル美術館が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができました。
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同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなりました。
ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたといいます。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたともいわれています。
長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」といわれています。

ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いています。


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著者

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現代アートの歴史・楽しみ方・各アートジャンルの解説など、役に立つ情報を芸術大学卒業のキュレーターが執筆しています。TRiCERA ARTは世界126カ国の現代アートを掲載しているマーケットプレイスです。トップページはこちら→https://www.tricera.net