近代絵画の父として知られるフランスの画家、ポール・セザンヌ。
ピカソやマティスなど、キュビズムの画家をはじめとして彼に続く多くの芸術家に重大な影響を与えたことでも知られています。
今回は、そんなセザンヌの生い立ちから画業を俯瞰してみましょう。
ポール・セザンヌとは?
セザンヌの生い立ち
エクス=アン=プロヴァンスという、フランス北部のパリに対して正反対側にある南仏の街に生まれたセザンヌ。地元の信頼の厚い銀行を経営する、裕福な家庭に生まれます。
中等学校では、親友となるエミール・ゾラと出会います。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていました。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っています。
もう1人の少年バティスタン・バイユ(英語版)(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めました。
1861年頃(22歳頃)の写真
父のルイ=オーギュスト・セザンヌは厳格で、息子をエクス大学の法学部に進ませました。
しかし、高校の頃から素描の訓練をしていたセザンヌは、法律の勉強と絵画の勉強の間で揺れ動いていました。
「レヴェヌマン」紙を読む画家の父, 1866
1858年、ゾラはパリに旅立ちます。セザンヌとゾラは文通を始め、様々なことについて語り合いました。この頃、法律の勉強に興味が持てず大学を怠けるようになっていたセザンヌは、ゾラに画家になりたいという思いを打ち明けています。
マネ《エミール・ゾラの肖像》 1868
画家としての出発
セザンヌは、ゾラの勧めもあって、エクス大学法学部を中退して絵の勉強をするためにパリに出ます。当時の美術エリートが通うエコール・デ・ボザールに入学できなかった彼は、画塾アカデミー・シュイスに通い始めます。ピサロやギヨマンといった人物たちとは、ここで出会いました。
しかし、彼の田舎者らしい振る舞いをわらいものにする周囲には溶け込めず、自分の画家としての才能にも自信がなくなった彼は一度エクスに帰ってしまいます。
パリではルーヴル美術館に足繁く通い、過去の巨匠たちから技術を見て盗んでいました。ロマン主義のドラクロワ、写実主義のクールベ、エドゥアール・マネから影響を受けていました。
この時期の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多くを占めていました。
略奪, 1867
パリの美術界に馴染めなかったセザンヌ
当時のフランス美術界で登竜門とされていたサロンへは毎年出品し、審査員の一人であるシャルル=フランソワ・ドービニーの熱心な擁護があったにも関わらず、落選が続きました。
また、美術批評家としての地位を確立しつつあった友人のゾラやマネが常連となったカフェ・ゲルボワにも加わりましたが、都会的でウィットに富んだ会話の飛び交うその場には馴染めなかったと言います。
聖アントワーヌの誘惑, 1870
印象派との出会い
1872年、セザンヌは人生の様々な変化を迎えていました。
数年前に知り合った妻のオルタンス・フィケとの間には息子ポールが生まれており、さらにパリ・コミューンの内戦が終わり共和政の戻ったパリに戻ります。
ピサロと交流を深くし、アマチュア画家の医師ポール・ガシェとも親交を結びます。また、パリのモンマルトルに店を開いたタンギー爺さんことジュリアン・タンギーともピサロの紹介で知り合い、彼はセザンヌの作品を熱愛しました。
この時期にピサロから筆触分割などの技術を学び、セザンヌの画面は明るさを獲得していきました。彼はのちに、印象派から受けた影響を次のように語りました。
「私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ」
女性水浴図, 1875-77
第3回印象派展での手応え
1874年に開催された第一回印象派展に参加したセザンヌは、酷評を浴びます。
同時に出品されていたモネの「印象・日の出」を筆頭に、展覧会全体が批評家からの酷評にさらされた展覧会でしたが、セザンヌが出品した作品の一つ「モデルヌ・オランピア」もまた皮肉的な批評を書かれました。その時も、ゾラは擁護する文章を新聞に寄稿しています。
出品された別の作品、「首吊りの家」は300フランの高値で買い上げられました。セザンヌは1枚を立派に売り上げたことで、自負心を母に宛てた手紙に告白しています。
モデルヌ・オランピア, 1873
オーヴェルの首吊りの家, 1872-73
花瓶に生けられた花, 1873
1877年、第3回印象派展に16点もの作品を出品したセザンヌは、以前と同じように批判されながらも、彼を評価する批評も目立ち始めました。
「色彩の画家」としての実力を発揮し始めます。
印象派からの離脱
セザンヌは、次第に、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めました。
セザンヌ自身はモネ、ルノワール、ピサロと友情は保ちながらも、故郷エクスに制作の場を戻します。
印象派内ではモネ・ルノワールとドガとの確執が鋭くなるなど変動が起こっていましたが、セザンヌはエクスで制作を続けます。
1886年、ゾラは小説『作品』を発表します。この小説の中では、セザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗が描かれました。
この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが通説となっていますが、現在、むしろメダンの館(ゾラの別荘)に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロをめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられています。
リンゴの籠のある静物, 1890-94
孤高の画家セザンヌ
サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けましたが、絵はなかなか人々に理解されませんでした。パリ万博でも目立たない場所に作品が展示されたりなどしましたが、あまり反響はなかったと言います。
しかし、前衛的な画家の間ではセザンヌの評価は高く、ゴーギャンを中心とした象徴主義の画家たちに賞賛されていました。
1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになりました。
サント・ヴィクトワール山, 1887
晩年のセザンヌ
ナビ派の画家モーリス・ドニは、1900年、『セザンヌ礼賛』を発表しました。
この作品は、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲にドニ自身を含むナビ派の仲間や、ヴォラール、批評家などが巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている様子が描かれています。この作品は1901年の国民美術協会サロンに出品されました。
このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもありました。
セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示しています。
モーリス・ドニ, セザンヌ礼賛, 1900
セザンヌの芸術哲学
画家のエミール・ベルナールはエクスのセザンヌのもとに1ヶ月滞在し、のちに回想録でセザンヌの言葉を著しています。
「ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒、球、円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません」
『大水浴図』の前に座るセザンヌ
後世の評価
セザンヌの死後しばらくは、モネやルノワールと比べるとかなり安値で取引されていたセザンヌ作品。
しかし、1910年以降はオークションでの価格が高騰し始め、『赤いチョッキの少年』、『ロザリオを持った老女の肖像』などが3万ポンド超で購入されています。
1980年代末には美術市場全体の高騰の中、日本人による高額購入が相次ぎます。
1989年にロンドン・クリスティーズで『リンゴとナプキン』が1000万ポンド(22億7540万円、1578万ドル)という記録的な価格で落札され、安田火災海上保険所蔵となりました。
その後の2011年、相対取引のため詳細は公表されていませんが、カタールが『カード遊びをする人々』を2億5000万ドル超で購入したと伝えられ、そのとおりとすれば当時の史上最高値とされました。
カード遊びをする人々, 1892-93
ポール・セザンヌの代表作品
1. 《肘掛け椅子に座るヴィクトール・ショケ》 1877年
モデルに膨大な時間のポーズと静止を求めたと言われているセザンヌは、このショケの肖像においても相当の時間をかけて仕上げたと言われています。ゆるく繋がれた手によって作られる腕の直線の角度、組まれた足と画面の四辺がなす三角形など、幾何学的な要素に細心の注意を払って仕上げられています。
2. 《リンゴとオレンジのある静物》1895-1900年
セザンヌの1880年代の静物画では、緊張感をはらんだ歪みが見られます。
様々な角度から見たモチーフを同一の画面に同居させることによって、テーブルの稜線が食い違っていたりするなどの効果が見られます。これは、のちにキュビズムによって高く評価され、発展させられます。
3. 《サント・ヴィクトワール山》1904年
初期の印象派の画家たちが色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対して、セザンヌの仕事は色彩による堅固な造形を目指している点に特徴があると言えます。
4. 《メダンの館》1879-81年
この絵では、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、短い筆致(ストローク)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されています。
5. 《大水浴図》1898 - 1905年
セザンヌは、初期にはロマン主義的な内面の情念を露骨に表出した絵画を描いていました。
印象派と出会ってからは、こうした露骨なロマン主義は影を潜めたように見えます。
しかし、一説によれば、セザンヌの生涯は震えるような感受性と理論的な理性との戦いであって、自ら忌み嫌うロマン主義が芽を出し続け、後年の水浴図などにまで表れていると指摘されています。
セザンヌの水浴図には、マネ、ルノワール、モネ、ドガ、トゥールーズ=ロートレックなどが、近代化の進むパリの情景を好んで描いたのに対し、自然を追い求めました。
水浴図には、彼のそうしたユートピアへの指向が表れています。
6. 《赤いチョッキの少年》1889 - 90年
少年の頭から青いズボンにいたるなだらかな曲線と、存在感のある右腕は、右端にあるソファの縁から左下へと延びるテーブルの斜めの線に対抗しています。
背後の茶の板とその下の白い壁の水平線が、斜線に支配された画面に変化を与えています。
7. 《アンブロワーズ・ヴォラールの肖像》1899年
ルノワールによるヴォラールの肖像, 1908
作品は、ルノワールが同じヴォラールを描いた暖かみのある肖像画とは異なり、余計なものを排した構築性の強いものとなっています。
セザンヌにとっての人物画は、ルノワールのようにモデルの生命感が問題になるのではなく、空間におけるヴォリュームを有する人体が問題であり、その点で、静物画と同じ意味を有したといえます。
8. 《果物とナプキン》1879-80年
制作に時間をかける余り、りんごが腐ってしまい、下絵だけで終わったこともあったといわれています。
ナビ派の画家ポール・セリュジエは、セザンヌの静物画について、
「見る者に皮をむいて食べたいと思わせるのではなく、ただ見るだけで美しく模写したい気持ちにさせる」
と評しています。
セザンヌとコラボした中島健太の作品
現代日本の画家・中島健太は、セザンヌの作品の世界に自身のペットのミュシャを紛れこませた作品を発表しています。
旅するミュシャ −セザンヌの静物と遊ぶ− by 中島健太
W 41.00cm x H 53.00cm
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