エドガー・ドガは、印象派の創立者の一人と考えられているアーティストです。
しかし、多くの印象派の画家とは距離を置き、独自のリアリズムを目指していたことでも知られています。
そんなドガは、スタイルの違いに加えて、他にも意外と知られていない事実があります。
Degas, Self Portrait
1. バレリーナたちの呼び名
ドガは、バレリーナを繰り返し描き、多くの作品が美術館に残されています。
しかし、ドガは彼女たちを "リトルモンキーガール "と呼んでいたと言われています。
ドガは正真正銘の女性差別主義者だったことがわかっています。
ヴァニティ・フェア誌の特集で、美術史家のジョン・リチャードソン氏は、ドガはモデルが苦悶の表情を浮かべるのを楽しみにしており、ストレスで「鍵穴から覗く」ような、「生で血を流す」足の描写を好んでいたと述べています。
Edgar Degas, The Dance Class (1873–1876)
2. ドガは生涯独身だった
ドガは、当時の貴族の生まれとしては珍しく生涯では一度も結婚していません。
なぜ独身だったのでしょうか?それはおそらく、彼が女性を競走馬と同一視していたことと関係があるのかもしれません。
ドガはかつて、「私は女性を動物として考えすぎていたのかもしれない」と語りました。
Edgar Degas, A Cotton Office in New Orleans (1873)
3. 激しい反ユダヤ主義者だった
シカゴ・トリビューン紙によると、ドガの反ユダヤ主義は、ユダヤ系のフランス軍将校が謀反の罪で不当に訴えられたドレフュス事件から生まれたものだといいます。
フランスは分裂し、芸術家たちも分裂しました。
ドガは、一家がユダヤ人の競争相手のために起業に失敗したことをきっかけに、反ユダヤ主義的な感情を持つようになったと言われています。
Edgar Degas, Homme nu couché (1855)
4. 「年老いた曲者」
1918年に発行された『バーリントン・マガジン・フォー・コノサーズ』で、アイルランドの小説家ジョージ・ムーアは、ドガが年老いた曲者であるという評判に異を唱えました。
ムーアは、ドガは人を遠ざけるために、自分をそのように見せていたことを明らかにしたのです。
ドガは、「芸術家は離れて暮らさなければならず、その私生活は知られてはならない」と説明したと言われています。
Race Horses, c.1873
5. 印象派を嫌っていた
一般に信じられていることとは逆に、ドガは印象派(ましてやその創設メンバーの一人)であるよりも、独立派であると見なされることを好みました。
ドガは自分のスタイルを強く主張し、当初は他の運動と関わることを拒んでいました。また、ドガが歴史画家を志したのも、この頃です。
印象派の中心的アーティストと考えられているモネ・ルノワール・シスレーなどとは距離を置き、風景画などは描きませんでした。
印象派展の後半の開催回では、ドガとその一派が、いわゆる印象派とは異なったスタイルで会場を席巻しました。
Degas, Edgar: A Woman Seated Beside a Vase of Flowers