《泣く女》とは?
《泣く女》は、パブロ・ピカソが1937年に描いた絵画作品です。
ピカソが写真に写し、絵画のモデルともなった愛人ドラ・マールが登場する、ピカソ作品の中でも最も有名なものの一つ。
テート・モダン収蔵の作品が最も有名ですが、ビクトリア国立美術館にも同名の作品が収蔵されています。
《泣く女》の基本情報
作者:パブロ・ピカソ
制作年:1937年
素材:キャンバスに油彩
寸法:61 cm × 50 cm
所蔵:テート・モダン、ロンドン
《泣く女》が描かれた背景
この作品は、1937年にスペイン内戦で空爆をされたゲルニカ事件に衝撃を受けた経験から制作されました。
世界で最も有名な絵画の一つでもある《ゲルニカ》と時を同じくして描かれています。
1937年1月、ピカソはパリ万国博覧会のスペイン館の壁画制作を依頼されていました。
依頼制作をしている最中にゲルニカ空爆は起こりました。
ピカソはこの大虐殺に大きな衝撃を受け、1937年7月18日のスプリングフィールド・リパブリック紙に、以下のようにコメントしています。
「《ゲルニカ》と呼ぶことになる制作中の絵画、そして最近の私のすべての芸術作品において、スペインを苦痛と死の海に沈めた軍への嫌悪を明確に表現する」
《泣く女》は、《ゲルニカ》に続くシリーズでした。
そんなにたくさん!?100作品以上もある《泣く女》
「泣く女」をモチーフとした作品には100種類以上のバリエーションがあるといわれています。
その作風は極めていろいろあります。
例えば、目玉が飛び出るほど泣く女。
次には、嘆き悲しみ泣く女。
さらに、ハンカチを食いしばって泣く女。
もしくは、空に叫ぶかのように泣く女。
どれも「青」「黒」「黄」「赤」「緑」「橙」など、多色を使って描かれています。
また、ゲルニカと関連強い泣く女の一部はモノクロで表現される時もありました。
《泣く女》の発展
ゲルニカ後の半年間の間、ピカソは憑かれたように《泣く女》を描き続けました。
ジュディ・フリーマンは、「ピカソが手放せなかったモチーフは、泣く女の姿だった」と述べています。
ゲルニカ空爆という惨劇に端を発した泣き叫ぶ女性の姿は、次第にピカソ自身の苦悩そのもののメタファーとしての性格を帯びるようになります。1937年5月から10月末にかけて制作された《泣く女》を描いた作品は、合計36点確認されています。
空にその後も様々なスタイルで描き続けました。
《ゲルニカ》に登場する泣く女
ピカソの代表的な作品『ゲルニカ』にも「泣く女」は登場しています。
ゲルニカ左下部にある兵士の上には「死んだ子供を抱きかかえてなく母親」が見えます。
これも名称はちがえど、テートモダンの《泣く女》と深い関係を持っています。
死んだ子供は白目をむいて手も足も垂れ下がっているようです。
それを抱きかかえる母親は泣きに泣いて天に向かって叫んでいるように思えるほどです。
泣く女として書かれている「ゲルニカのための習作」は飛びだした目、鏃(やじり)の形をした鼻孔、そしてひどくとんがった舌が扇情的に見るものの感情を喚起します。
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