印象派を代表する画家の一人として美術史に名を残す、ピエール=オーギュスト・ルノワール。
彼の繊細な観察による光の描写は、現代の鑑賞者をも魅了しています。
今回は、そんなルノワールについての9つの事実と作品をご紹介します。
①ルノワールは、画家よりも歌手の才能があった?
ピエール=オーギュストは、少年時代に地元の聖歌隊で歌のレッスンを受けており、その才能を認められていました。
しかし、家庭の経済的事情により、辞めざるを得ませんでした。
幼い頃のピエールを美術の道に導いた何かがなければ、そして家庭も経済的に安定していたら、もしかしたら歌手としてのルノワールが有名になっていたのかもしれません。
②ルーブル美術館の近くの陶器絵付の見習工だった
家族を助けるために、ルノワールは陶器工場で絵づけの見習い工をしていました。そこで絵の才能を発掘されることになります。
近くにあったルーブル美術館によく立ち寄り、過去の巨匠たちの絵を模写して実力を身につけていきました。
結局陶器工場が機械化され絵づけ師が解雇されるのに伴って、職人としての生活は終わりを迎えました。
③モネ、シスレー、バジールとの出会いと第一回印象派展
印象派が「印象派」として名を知られる年、クロード・モネ、アフルレッド・シスレー、フレデリック・バジールとともに開いた展覧会に参加したルノワール。
第一回印象派展において、評論家によって「印象のみでしか描いていない」と揶揄された彼らは、沈んでいました。
しかし、その中でもルノワールの作品は比較的好ましい評価を受けていました。
Bal du moulin de galette, Renoir, 1876
La Balancoire, Renoir, 1876
④非常に速筆だった
時には、30分で仕上がった作品もあったと言います。伝統的な描き方をする画家は、何ヶ月も何年もかけて1作品を仕上げるのに比較して、とてつもないスピードで描くことができました。
例えば、リチャード・ワーグナーの肖像を描くとき、わずか35分間で描き上げたと言います。
また、ガーンジーという地に1ヶ月滞在した時には、15作品を仕上げて帰ってきたと言います。
Richard Wagner, 1882
⑤ドラクロワ、ベラスケス、ティツィアーノに憧れて
ルノワールは、ドラクロワがアルジェリアで触発されたような経験を求めてアルジェリア旅行をし、ベラスケスの作品を見るためにマドリードまで旅をし、ティツィアーノの作品を直に見るためにフィレンツェに足を運びました。
ディエゴ・ベラスケス|Las meninas, 1656
ティツィアーノ|Venus of Urbino, 1534
⑥独自の色彩理論を使い、黒と茶色は使わなかった
当時の画家たちの常識とは違い、独自の色彩感覚を持っていたルノワールは、影に茶色や黒を決して使いませんでした。
むしろ、周りのものの反射光を取り入れたりすることで、カラフルな色を影に使っていました。
この、単純かつ重要な色彩に関する方針が、印象派を特徴づける大きな要素だったのです。
Luncheon of the Boating Party, 1880
⑦セーヌ川に投げ込まれそうになったことがある
ルノワールは、よく野外でスケッチをしていました。セーヌ川の同じ場所でスケッチをしていたルノワールは、共産党員から疑われていました。
結局、川に投げ込まれそうになった時、共産党員の一人のレジナールという人物がルノワールだということに気づき命は助かりましたが、それは別の機会にルノワールがレジナールを助けたことがあるからでした。
The Seine at Asnieres, 1879
⑧晩年はリューマチに悩まされていた
晩年になると、ルノワールは右肩や体の節々にリューマチを抱えてしまいました。その影響で彼のスタイルは大きな変更を余儀なくされてしまいましたが、それでも絵を描くこと自体はやめませんでした。
病気が進行すると、完全に肩が固まってしまいました。それを克服するために、ルノワールは絵筆を自分の手にテープで縛り付けて絵を描いていました。
絵筆を縛り付けて描くルノワール
⑨3人の息子は全員アーティストになった
ルノワールは、ピエール、ジャン、そしてクロードの3人の息子をもうけました。
ピエールは舞台や映画の俳優に。そしてジャンは映画監督になりました。クロードは最も父に近い、陶器工の道を選びました。