フィンセント・ファン・ゴッホは、世界で最も有名な画家の一人ですが、同時に「苦悩する芸術家」というイメージの代名詞でもあります。
わずか37歳で亡くなったゴッホは、生前はたった1枚の絵しか売ることができませんでした。
しかし、あのゴッホにも意外と知られていない事実があります。今回は、その中から8個の事実を選んでご紹介します。
①10年間の間に900枚の絵を描いた
ゴッホは、実は27歳になるまで、画家ではなく牧師、教師、画商など、さまざまな仕事をしていました。
それから、27歳になった時、これらの職業をやめ絵を描くことに全精力を注ぎ始めました。
ゴッホはその後、37歳までの10年間で、約900点の絵画と1,100点のドローイングを制作しました。
つまり、平均すると36時間ーほぼ1日半ーごとに新しい作品を制作していたことになります。短い生涯ということのほかにも、これほどの制作スピードで絵を描いていたということも知っておくと、彼の作品を見るときに興味深く見れるでしょう。
The Potato Eaters, 1885
②数多くの精神疾患と闘っていた
ゴッホが精神疾患を抱えていたことはよく知られていますが、詳しいことについてはなかなか知られていません。実は、彼の症状には、幻覚・うつ病・発作が含まれ、それは時にかなり深刻な言動を引き起こしました。
現代の多くの精神科医が、彼の症状から病気を診断しようと試みており、統合失調症、双極性障害、梅毒、書痙、ゲシュウィンド症候群、側頭葉てんかんなどの可能性が指摘されています。また、これらが複合していたというふうに表現することも可能でしょう。
いずれにせよ、ゴッホの生活習慣は、現代の一般的な市民に比べるとかなり劣悪なものだったであろうことは確かです。
The sower, 1888
③ほとんどコーヒー・パン・タバコだけで生きていた
ゴッホの生まれた環境は比較的恵まれていました。しかし、成人後は貧しい生活を送り、安い食べ物で生き延びていました。食事はパンとコーヒーが中心で、酒を飲んだくれて、パイプを手にしていないところを見られることはほとんどありませんでした。
弟のテオはしばしばフィンセントに金銭的援助をしていましたが、ゴッホは自分の芸術に固執しており、すべてのお金を画材に費やしていました。
33歳になる頃には、ゴッホの健康状態は悪くなる一方でした。兄のテオに宛てて、1年間で温かい食事を6回しかとれず、歯が緩んで痛むようになったと書いています。
彼は自分自身を酷使し、食生活も乱れ、タバコと酒を好んでいたことを考えれば、彼が定期的に体調を崩すのも無理からぬことでした。
The Church in Auvers-sur-Oise, View from the Chevet, 1890
④「赤毛の狂人」とあだ名されていた
ゴッホは精神状態が悪いことが多かったため、精神病院の入退院を繰り返す日々が続きました。死の数年前からは幻覚や妄想が激しくなり、近所の人たちから目をつけられていました。
彼の行動に恐れをなした近所の人々は、彼を「赤毛の狂人」と名付け、アルル請願書への署名を集めるために結集しました。これを受けて、警察はゴッホを自宅から追い出し、ゴッホは再び入院することになります。
Dr Paul Gachet, 1890
⑤耳の切り落とし事件の秘密
ゴッホが耳を切り落としたという話は、ほとんどの人が聞いたことがあるでしょう。確かに耳は切られたのですが、その詳しい背景は意外とられていません。
ゴッホは当時、共同のアトリエで生活していた友人の画家ゴーギャンとあるとき口論になりました。ゴッホがカミソリで友人を脅すまでにヒートアップしたとき、彼はゴーギャンを傷つける代わりに、衝動的に自分の耳の一部を切り落とし、それを布に包んで、後に娼婦に与えたのです。
しかし、歴史家の中には、ゴーギャンが悪いと考える人もいます。ゴーギャンは剣術が得意で、喧嘩の際にゴッホの耳を剣で切り、二人は警察から逃れるために事実を隠蔽することで合意したというストーリーも考えられています。
ゴッホは耳全体を切り落としたという説もあるが、実際には耳たぶの一部を切り落としただけとも考えられています。
Self-Portrait, 1889
⑥《星月夜》は精神病院で描かれていた
耳切り落とし事件の後、ゴッホは精神病院のサン=ポール=ド=モーソル病院に入院することを決意し、そこで「全身せん妄を伴う急性躁病」と診断されることになります。
彼にとって幸運だったのは、入院中も創作活動を続けることができたことです。彼は鉄格子のある窓から眼下の景色を眺めながら、日々を過ごしていました。そして、ここで彼の最も有名な作品である《星月夜》を完成させたのです。
《星月夜》は、日替わりで、時間帯を変えて描かれています。日の出、月の出、晴れの日、曇りの日、風の強い日、雨の日など、光や天候の変化を見ながらそれを忠実に描いていきました。
傑作として認められている作品ですが、ゴッホはこの作品に満足することはなく、入院中に完成させたものは他の作品も含めて失敗作だと思うと言っていた、と伝えられています。
The Starry Night, 1889
⑦ポスト印象派自画像の先駆者だった
ゴッホは3年間で43枚もの自画像を描きましたが、それは虚栄心というよりも必要性からくるものでした。
モデルを雇う余裕もなく、交友関係も限られていたため、ゴッホには他に描くべき人がほとんどいなかったのです。
自画像の中の彼は、無精ひげを剃らず、目は深くくぼみ、あごが弱く、歯が欠けているように見えることがよくあります。中には、ゴーギャンに耳を切り落とされ、包帯を巻かれた直後の肖像画もあります。
また、新しいキャンバスを買わずに既存の絵の上に重ねて新たに絵を描くなどの苦労もしており、もしかしたら現存している900枚のキャンバスの下にはもっと多くの絵画が隠されているのかもしれません。
Self-Portrait, 1887
⑧ゴッホは本当に拳銃で自殺したのか?
37歳になったゴッホは精神病院から退院し、弟のテオのもとに身を寄せましたが、精神状態は悪化の一途をたどりました。
1890年7月29日、ゴッホが自らの胸部を撃ったことが報じられました。弾丸は胸を貫通し、その銃撃によって直接死亡したわけではありませんでしたが、医師は弾丸を取り除くことができず、2日後に傷口から感染した感染病によって死亡しました。
ゴッホの死去についてはこのような結末で語られるのが一般的ですが、ゴッホが自分で弾丸を発射したのではなく、ゴッホをからかった地元の若者が殺害したのだという説もあります。
死の床でゴッホが弟に残した悲痛な別れの言葉は「悲しみは永遠に続くだろう」というものでした。
The Bedroom, 1889