マグリットってどんな画家?3点要約
💡日常のモチーフを非日常な現象のもとに描いた
💡静謐な雰囲気ながら挑戦的なメッセージを秘める
💡表象と現実の関係性についての哲学的考察を促す
マグリットの生涯
幼少期のマグリット
ルネ・マグリットは1898年生まれのベルギーのシュールレアリストの画家です。
日常的なモチーフを非日常で意外性のあるシチュエーションのもとで描くことによって、「現実」と「表象」に関して深い考察を与えるような作品を制作しました。
彼の業績は現代に至るまで多くの分野において認められ、その後の美術史においてはポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアル・アートに顕著な影響を与えました。1967年にその生涯を閉じました。
ルネ・マグリットはベルギーのレシーヌという町で生まれました。父は仕立て屋、母は帽子職人として働いていました。彼の作品によく見られる、スーツを着た男性の姿や帽子というモチーフは、両親の仕事によって子供の頃に常にそのようなものに囲まれていたことが深く関係しています。
幼い頃の記録は多くありませんが、少なくとも1910年からは美術教育を受けていたようです。
制作のモチーフとなった幼い頃の記憶
1912年2月、マグリットが13歳のとき、母のレジーナがシャトレのサンブル川で入水自殺をしました。この自殺衝動は初めてのものではなく、これ以前にも幾たびか未遂をしていたといいます。母の遺体が引き上げられた時の、顔に布がかかった情景は少年のマグリットの記憶に刻み込まれ、1927年から翌年1928年にかけて制作された《恋人たち》における顔を布で覆われた人物像にあらわれています。
《恋人たち》1928年
初期の作品
1915年から作品が残されており、初期は印象派的なスタイルで制作を行なっていました。
1916〜1918年の間、ブリュッセルのアカデミー・ボザールに在籍し、コンスタン・モンタルドなどの指導を受けましたが、マグリットはアカデミーの授業に飽き飽きしていました。
同時に、王立美術アカデミーにてポスター画家のジスベール・コンバッツの講義もとっていました。
コンバッツは東洋美術の研究家でもあり、多少の影響を与えたかもしれません。
1918〜24年の間にマグリットが制作した絵画には、未来派や、キュビズムの作家ジャン・メッツァンジェの影響がみてとれます。
《モデル》1922年
ジャン・メッツァンジェ《カフェのダンサー》1912年
1922年—結婚・シュルレアリストへの道
1922年に、幼馴染のジョルジェット・ベルジェと結婚しました。
この1922年はマグリットの運命を決定づけた年でした。
というのも、同年に彼の芸術的方向性を決めるような出会いも訪れたからです。
詩人のマルセル・ラコントからジョルジョ・デ・キリコの《愛の歌》の複製を見せてもらったとき、マグリットは感涙してこのように述べました。
「これは僕の人生の中で最も感動的な瞬間だった…僕は初めて、『思考』というものを目の当たりにしたんだ」
ジョルジョ・デ・キリコ《愛の歌》1914年
また、ベルギー象徴主義の画家、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンクの作品もマグリットに多大な影響を与えました。
特に、彼の 《薔薇色の家》 は、マグリットの《光の帝国》という作品に直接的な影響が見られます。
ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク《薔薇色の家》1892年
《光の帝国》1953 - 1954年
1922年から26年までは、壁紙工場で設計者として働いたり、ポスターや看板デザイナーとして働きました。その後、ブリュッセルのギャラリー・サントールとの契約を結び、フルタイムの画家としてのキャリアをスタートさせました。1926年に初のシュルレアリスム絵画 《失われた騎手》 を制作し1927年に初個展を開きましたが、その展覧会は批評家に手厳しい批判を受けたといいます。
《失われた騎手》1926年
パリへ
初個展の失敗に凹んだマグリットは、パリへ旅立ちます。そこでシュルレアリスムの発起人アンドレ・ブルトンや他の芸術家と知り合い、本格的にのめり込んでいきます。
他の作家と比較して、幻想的で夢のようなイメージがマグリットの特徴でした。自身も運動の中心メンバーとなり、パリには3年間とどまることになります。
1929年には、パリのゴーマンズ・ギャラリーでサルバドール・ダリ、ジャン・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、フランシス・ピカビア、パブロ・ピカソ、イヴ・タンギーとともに展覧会を開催します。
サルバドール・ダリ《記憶の固執》1931年
ジャン・アルプ《雲の羊飼い》1953年
ジョルジョ・デ・キリコ《イタリア広場》1952年 source
マックス・エルンスト《Ubu Imperator》1923年
ジョアン・ミロ《耕作地》1923–1924年
フランシス・ピカビア《ウドニ―(若いアメリカの少女:ダンス)》1913年 source
パブロ・ピカソ|Nature morte au compotier, 1914 - 1915, source
イヴ・タンギー《二倍の黒》
代表作「イメージの裏切り」
1929年12月、マグリットは最後のシュルレアリスム革命展に参加し、有名な《イメージの裏切り》を発表しました。
展覧会場では、『言葉とイメージ』というエッセイも同時に配布しており、この平面作品とともに文字言語と視覚言語の関係について挑発的に探求する革新的な作品となっています。
《イメージの裏切り》1929年
マグリットの哲学的コンセプト
マグリットの芸術は、日常的なモチーフを使いながらもそのものの通常の使い方(見え方)とは違う状態になっているのが特徴的です。
《イメージの裏切り》では、パイプの絵の下にまるでタバコの広告看板のように ”Ceci n’est pas une pipe” — 「これはパイプではない」—と記されています。
一見矛盾しているようにも見えますが、実際にそれはパイプではないのです。
その絵は、「パイプの絵」であり「パイプ」そのものではないという点において。
アーティストで評論家のSuzi Gablikによれば、マグリットの仕事は「物理的世界に対するどんな教条的な視点をも解体する、システマチックな試み」だといいます。
すなわち、マグリットが岩を描けば—普通なら重く・硬く・動かない物質が—それは空を飛び、逆に人間は岩のように固まった様子で描かれるのです。
《生活の術》1967年
古典的作品の「リメイク」
また、古典的名作をシュルレアリスムバージョンで再現したシリーズも有名です。
《視点 I》1949年
ジャック=ルイ・ダヴィッド《ルカメール夫人の肖像》1800年
《マネのバルコニー》1950年
エドゥアール・マネ《バルコニー》1868年
モチーフと「絵画」の混合
《人間の条件》というシリーズでは、絵画が「意味」を伝達するという現象の不確かさを、イーゼルに立てかけられた絵画とそのモチーフになっている風景を眺める視点で描写することで表現しています。
アンドレ・ブレトンへの手紙の中で、《人間の条件》でやりたかったことをマグリットはこう書き残しました。
「イーゼルの後の風景とキャンバスに描かれた絵が違おうと、関係はないのです。ポイントは、部屋の外から見た風景と内から見た風景の差異を消去することにあるんです」
この二つのシリーズで描かれる窓に取り付けられたカーテンは、まるで劇場の緞帳のように重たいものとして描かれていることから、表象の演劇性を暗に皮肉っているとも受けとれます。
《人間の条件》1933年
The Promenades of Euclid, 1955
マグリットの芸術の概観
マグリットの仕事は、ジョアン・ミロのような「自動筆記」をメインとした作家とは違い、より表現的で自覚的なものでした。日常的なオブジェクトを非日常のコンテクストのもとに置くことにより、彼は「詩的なイメージ」を作り出そうとしたといいます。彼は、絵を描くという行為についてこう語っています。
「絵を描くということは、色をこうやって隣に置いていくことで絵具という物質性を消し去り、空や、人間や、木や、山や、家具や、星や、物質を、一つの詩的にまとめられたイメージのうちに結晶させることだ。その詩は、新しさも古さも、どんな象徴性をも持たないのだ」
「私の絵画は、何ものをも隠さない視覚的イメージだ。それは謎を呼ぶ。実際、私の絵を見た人は「これはどういう意味を持っているの?」と尋ねる。しかしそれは意味など持っていないのだ。それは、謎は意味を持っておらず、ただ不可知なだけであるのと同じである」
マグリットの精神分析学
マグリットの幻想と現実の入り混じった仕事は、しばしば母親の早すぎた死と関連づけられてきました。
孤児を診察してきた精神分析学者によれば、彼の仕事は「彼の願望—母親は生きているのだ—と、彼の正常な意識—母はもう死んだのだ—の、常にいったりきたりする揺動」であるといいます。
参考文献
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