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1452年に生まれ、1519年に67歳で没しました。イタリアのフィレンツェで活躍し、ルネサンス期を代表する芸術家として活躍しました。ちなみに、「ダ・ヴィンチ」という呼称は、レオナルドが生まれ育った「ヴィンチ村の」という程度の意味なので、じつは彼の苗字ではありません。そのため、この記事では省略した「レオナルド」と呼称していきます。Leonardo da Vinci - presumed self-portraitレオナルドは人類史上最高の天才との呼び声も高い人物です。活躍した分野は多岐に渡り、絵画、博物学、占星術師、鏡文字、音楽、建築、料理、美学、数学、幾何学、会計学、生理学、組織学、解剖学、美術解剖学、人体解剖学、動物解剖学、植物解剖学、博物学、動物学、植物学、鉱物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、化学、光学、力学、工学、流体力学、水理学、空気力学、飛行力学、飛行機の安定、航空力学、航空工学、自動車工学、材料工学、土木工学、軍事工学、潜水服など、数えきれないほどの分野で大きな業績と手稿を残したとされています。完全に解明されていない作品もあり、21世紀になっても幻と言われる作品も存在しているようです。ここからは彼の人生を時系列で辿りながら、代表的な作品を見ていきましょう。
レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていません。1452年に、トスカーナのヴィンチという街のはずれの村落に生まれました。学校には行けませんでしたが、祖父母からイタリア語の教育を受け、ラテン語学校に通う同じくヴィンチ村の子供たちからラテン語・数学・幾何学・絵画のてほどきを受けたとされています。しかし、実質的にはほぼ独学で全ての学問を学びました。野山や谷川を好み、時には村の馬小屋にて馬の世話やスケッチなどをして幼少期を過ごしたと言われています。レオナルドが描いた最初期のドローイング|ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
1466年に、14歳のレオナルドはフィレンツェで最も優れた工房の一つを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りしました。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を発揮しました。レオナルドの興味関心は芸術分野だけでなく、設計、化学、冶金学、金属加工、皮細工、機械工学、木工など様々な分野に及んでいたといいます。ヴェロッキオとレオナルド《キリストの洗礼》1472 - 1475|ウフィツィ美術館(フィレンツェ)この作品はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所はキリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるといわれています。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されています。《キリストの洗礼》はテンペラで描かれた絵画の上から当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると風景・岩・キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われています。レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ていました。突出して優れた技術を持った職人として有名になっていきます。
1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けました。また、その後にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、《東方三博士の礼拝》の制作依頼も受けています。しかしながら、どちらも制作が中断され、未完成に終わっています。親方として仕事に邁進していましたが、ミラノ公国への招聘などによって、これらの作品は完成の目を見ることはありませんでした。《東方三博士の礼拝》1481|ウフィツィ美術館(フィレンツェ)レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動しました。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《岩窟の聖母》は「聖母無原罪の御宿り信心会」からの依頼で、かの有名なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画《最後の晩餐》(1495 - 1498)も、ミラノ公国滞在時に描かれた作品です。岩窟の聖母 1483 - 1486|ナショナル・ギャラリー(ロンドン)最後の晩餐 1495 - 1498|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(ミラノ)この円熟期には、その後も初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作なども行なっていました。レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれています。この騎馬像制作のために17トンのブロンズが用意されたが、後の1494年11月にこのブロンズは、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するための大砲の材料に流用されてしまったそうです。聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ 1499 - 1500頃、あるいは1506 - 1508|ナショナル・ギャラリー(ロンドン)ルーベンスによる《アンギアーリの戦い》の模写レオナルドによる『アンギアーリの戦い』のためのスケッチ
レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられました。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を弟子や友人たちとともに過ごしました。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっています。
レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地でした。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもあります。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、既に老境に入っていました。マサッチオの『楽園追放』(1425年頃、ブランカッチ礼拝堂壁画)は、裸身で取り乱すアダムとイヴを力強い造形で描いた作品です。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになります。ドナテッロ|預言者ハバクク 1423 - 1425|サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館パオロ・ウッチェロ|サン・ロマーノの戦いマサッチオ 楽園追放(左が修復前、右が修復後), c. 1425|ブランカッチ礼拝堂レオナルドはボッティチェッリ(1445年頃 - 1510年)、ギルランダイオ(1449年 - 1494年)、ペルジーノ(1450年頃 - 1523年)と同時代人で、わずかに年少です。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーに出入りしました。サンドロ・ボッティチェッリ, プリマヴェーラ, c. 1477 - 1478|ウフィツィ美術館ドメニコ・ギルランダイオ, The Madonna and Child adored by St Zenobius and St Justus, c. 1483|Uffizi, Florenceペルジーノ, 少年の肖像, 1495|ウフィツィ美術館
レオナルド|カーネーションの聖母 1478 - 1480|アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)受胎告知 c. 1472 1475|ウフィツィ美術館(フィレンツェ)荒野の聖ヒエロニムス c. 1480|ヴァチカン宮殿岩窟の聖母 1483 - 1486|ルーヴル美術館(パリ)モナ・リザ 1503 - 1507年|ルーヴル美術館(パリ)聖アンナと聖母子 c. 1510|(ルーヴル美術館)ウィトルウィウス的人体図 c. 1485|アカデミア美術館(ヴェネツィア)子宮内の胎児が描かれた手稿 c. 1510|ロイヤル・コレクション(ウィンザー城)腕骨格の研究手稿 c. 1510参考文献
著者
TRiCERA ART
現代アートの歴史・楽しみ方・各アートジャンルの解説など、役に立つ情報を芸術大学卒業のキュレーターが執筆しています。TRiCERA ARTは世界126カ国の現代アートを掲載しているマーケットプレイスです。トップページはこちら→https://www.tricera.net
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