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CURATOR’s EYE
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フィンセント・ファン・ゴッホ|La Nuit étoilée, 1889
💡印象派と20世紀初頭の前衛芸術の架け橋となった芸術運動
💡印象派に反発して生まれたさまざまな表現形式の総称
💡ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホなどが代表的画家
ポスト印象派とは、「印象派以後」という意味の言葉です。これは1886年から1905年にかけて発展したフランスの芸術運動で、1886年に開催された最後の印象派展からフォービズムの誕生までの期間のことを表すといわれています。
ポスト印象派は、「光をそのまま捉える」という目標を持つ、初期印象派の自然主義を重視する印象派に反発する形で生まれました。ポスト印象派の画家たち自身の意識としては、「印象派以降」というよりも「脱印象派」「反印象派」という姿勢があったでしょう。
ポスト印象派は、抽象性・象徴性を重視します。かなり多くのカテゴリー分類がなされている芸術運動ですが、代表的なものを列挙すると、ナビ派、新印象派、象徴主義、クロワゾニスム、ポン=タヴァン派、綜合主義などを含みます。
具体的な作家名を挙げると、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンがポスト印象派の御三家とされることが一般的です。
ほかに、新印象派のジョルジュ・スーラやポール・シニャック、象徴主義のオディロン・ルドンもよく知られています。
彼らに共通するのは、若いころに印象派の影響を受けたことです。上述した様々な作家たちが相互に影響を与えたかというと、あまりそれは認められません。したがって、統一的な「ポスト印象派様式」があるわけではないことには注意が必要です。印象派の時代までは、ある程度まとまった数の画家たちがカフェなどに集い芸術論をディスカッションすることで、大きな芸術運動が生まれていました。しかし、ポスト印象派の頃から、より個人のスタイルはカテゴライズすることが難しいほどに細分化していったと言えます。
ポスト印象派は、印象派の絵画における主題の矮小化や構造の喪失に対して共通する不満を抱いていましたが、一方で彼ら自身が進むべき道については意見がバラバラでした。
しかしもちろん共有しているところも多数あり、以下のような点が挙げられるでしょう。
ここからは、それぞれの特徴を解説していきます。
ジョルジュ・スーラとその信奉者たちは、光学の研究成果を活用して小さく鮮やかな色彩の点を無数に並べることで描写を行う「点描画」に取り組みました。
ジョルジュ・スーラ|Un dimanche après-midi à l'Île de la Grande Jatte, 1884 -1886
ポール・セザンヌは、絵画に秩序と構造を取り戻すことで「印象派を、美術館に飾ってある作品のように堅固で耐久性のあるものにする」ことを目指しました。セザンヌは印象派の鮮明な色彩を保ちつつ、対象を基本的・幾何学的な形態に還元しました。
ポール・セザンヌ|Still Life with a Curtain, 1895
オランダ人のこの画家は、鮮やかな色彩と際立った筆致により画家の感情や心境がダイレクトに見えるような大胆な作品作りを行いました。
フィンセント・ファン・ゴッホ|Terrasse du café le soir, 1888
ポスト印象派という言葉は1906年に美術批評家ロジャー・フライが使ったことが起源とされています。
また、批評家のフランク・ラターは、1910年10月15日発刊の『Art News』でのサロン・ドートンヌのレビューで、オーソン・フリーズを「ポスト印象派のリーダー」と表現しました。
3週間後にロジャー・フライは再び1910年にロンドンのグラフトン・ギャラリーで企画した展示「マネとポスト印象派の作家たち」というタイトルで正式にこの言葉を使いました。なお、同誌には「フランスのポスト印象派」という展覧会の広告も掲載されていたといいます。
この展覧会の出品者は、マネの他、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、セザンヌ、マティス、ドラン、ブラマンク、新印象主義の画家たちなどポスト印象派の作家にフォーヴィズムなど20世紀初頭の前衛芸術家が混じったものでした。
モーリス・ド・ヴラマンク|The Seine at Chatou, 1906
アンドレ・ドラン|La jetée à L'Estaque, 1906
アンリ・マティス|Portrait of Madame Matisse (The green line), 1905
フライの展覧会に出品された画家は、ほとんどが印象派世代より若い画家でした。フライは後にこう説明してます。
「便宜上、これらの画家たちに名前をつける必要があり、最も曖昧で確約のないものとして、ポスト印象派という名前を選びました。これは、印象派の運動との相対的な時間的位置づけを述べたにすぎません」
ジョン・リワルドは、ポスト印象派の先駆的な出版物『ゴッホからゴーギャンまで』(1956年)において、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、ルドンなど、フランスで活躍した初期ポスト印象派の画家たちに焦点を当て、彼らの関係を研究しました。 以下は、その中で本記事に関係のある記述です。
著者
TRiCERA ART
フィンセント・ファン・ゴッホ|La Nuit étoilée, 1889
💡印象派と20世紀初頭の前衛芸術の架け橋となった芸術運動
💡印象派に反発して生まれたさまざまな表現形式の総称
💡ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホなどが代表的画家
ポスト印象派とは、「印象派以後」という意味の言葉です。これは1886年から1905年にかけて発展したフランスの芸術運動で、1886年に開催された最後の印象派展からフォービズムの誕生までの期間のことを表すといわれています。
ポスト印象派は、「光をそのまま捉える」という目標を持つ、初期印象派の自然主義を重視する印象派に反発する形で生まれました。ポスト印象派の画家たち自身の意識としては、「印象派以降」というよりも「脱印象派」「反印象派」という姿勢があったでしょう。
ポスト印象派は、抽象性・象徴性を重視します。かなり多くのカテゴリー分類がなされている芸術運動ですが、代表的なものを列挙すると、ナビ派、新印象派、象徴主義、クロワゾニスム、ポン=タヴァン派、綜合主義などを含みます。
具体的な作家名を挙げると、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンがポスト印象派の御三家とされることが一般的です。
ほかに、新印象派のジョルジュ・スーラやポール・シニャック、象徴主義のオディロン・ルドンもよく知られています。
彼らに共通するのは、若いころに印象派の影響を受けたことです。上述した様々な作家たちが相互に影響を与えたかというと、あまりそれは認められません。したがって、統一的な「ポスト印象派様式」があるわけではないことには注意が必要です。印象派の時代までは、ある程度まとまった数の画家たちがカフェなどに集い芸術論をディスカッションすることで、大きな芸術運動が生まれていました。しかし、ポスト印象派の頃から、より個人のスタイルはカテゴライズすることが難しいほどに細分化していったと言えます。
ポスト印象派は、印象派の絵画における主題の矮小化や構造の喪失に対して共通する不満を抱いていましたが、一方で彼ら自身が進むべき道については意見がバラバラでした。
しかしもちろん共有しているところも多数あり、以下のような点が挙げられるでしょう。
ここからは、それぞれの特徴を解説していきます。
ジョルジュ・スーラとその信奉者たちは、光学の研究成果を活用して小さく鮮やかな色彩の点を無数に並べることで描写を行う「点描画」に取り組みました。
ジョルジュ・スーラ|Un dimanche après-midi à l'Île de la Grande Jatte, 1884 -1886
ポール・セザンヌは、絵画に秩序と構造を取り戻すことで「印象派を、美術館に飾ってある作品のように堅固で耐久性のあるものにする」ことを目指しました。セザンヌは印象派の鮮明な色彩を保ちつつ、対象を基本的・幾何学的な形態に還元しました。
ポール・セザンヌ|Still Life with a Curtain, 1895
オランダ人のこの画家は、鮮やかな色彩と際立った筆致により画家の感情や心境がダイレクトに見えるような大胆な作品作りを行いました。
フィンセント・ファン・ゴッホ|Terrasse du café le soir, 1888
ポスト印象派という言葉は1906年に美術批評家ロジャー・フライが使ったことが起源とされています。
また、批評家のフランク・ラターは、1910年10月15日発刊の『Art News』でのサロン・ドートンヌのレビューで、オーソン・フリーズを「ポスト印象派のリーダー」と表現しました。
3週間後にロジャー・フライは再び1910年にロンドンのグラフトン・ギャラリーで企画した展示「マネとポスト印象派の作家たち」というタイトルで正式にこの言葉を使いました。なお、同誌には「フランスのポスト印象派」という展覧会の広告も掲載されていたといいます。
この展覧会の出品者は、マネの他、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、セザンヌ、マティス、ドラン、ブラマンク、新印象主義の画家たちなどポスト印象派の作家にフォーヴィズムなど20世紀初頭の前衛芸術家が混じったものでした。
モーリス・ド・ヴラマンク|The Seine at Chatou, 1906
アンドレ・ドラン|La jetée à L'Estaque, 1906
アンリ・マティス|Portrait of Madame Matisse (The green line), 1905
フライの展覧会に出品された画家は、ほとんどが印象派世代より若い画家でした。フライは後にこう説明してます。
「便宜上、これらの画家たちに名前をつける必要があり、最も曖昧で確約のないものとして、ポスト印象派という名前を選びました。これは、印象派の運動との相対的な時間的位置づけを述べたにすぎません」
ジョン・リワルドは、ポスト印象派の先駆的な出版物『ゴッホからゴーギャンまで』(1956年)において、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、ルドンなど、フランスで活躍した初期ポスト印象派の画家たちに焦点を当て、彼らの関係を研究しました。 以下は、その中で本記事に関係のある記述です。
著者
TRiCERA ART