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実際には重力があり、上下は認識ができるはずだが、視覚情報による空間把握が、ホワイトアウトによって混乱し方向感覚が欠損することで、 真っ白な空間の中に自身が浮かんでいるような状態、もしくはミルク色の海に落ちたような感覚が彼女を襲ったのだろう。それは、自身の生命に関わる恐怖体験であったとともに、認識不可能で無限に拡張する空間、上下も左右もなくただ漠として広がり続ける空間という概念の体験でもあったはずである。この体験は、彼女にとって世界のさまざまな境界を曖昧にさせた。作品では、都市や森林や海などさまざまな風景が描かれ、近景ははっきりと遠景になるほど霞がかっていく。都市では奥に広がっていると思われるビル群が、森林では森自体の深さが、そして海では地平線が喪失している。都市や森林では、その空間の広さや大きさが曖昧になっているのに対し、海景では、水平線という空と海の視覚的な境界概念が曖昧になっている。”1メートル先が見えず、見えるものすべてが真っ白で、方向感覚を失ったような気がしました。自分がまっすぐ立っているのかどうかもわからない。まるで宇宙空間に放り出されたような感覚です。”
(The gap between the sky and the sea,H 72.7cm x W 91cm x D 2.7cm,Chiho Yonemushi, 2019)
上記の通り、彼は本作品シリーズにおいて、空気と水という生命にとって根源的な要素を捉えることを試みている。そうして捉えられた波の細かな表情や空気中の粒子を捉えたような空気の雰囲気は、 米蒸の作品の不明瞭さとは対照的でありながらも、世界の真実を捉え、表現しようという点において類似しているとも言える。また、杉本はいわゆる銀塩プリントの手法によって作品を制作する。これはフィルムに映し出されたイメージを暗室にて印画紙にプリントするものである。これは銀粒子の酸化還元を利用したプリント方法であり、写真によって独特な粒子感を見てとることができる。つまりこのイメージは言わば粒子の集合なのである。これに対し、米蒸が用いる胡粉は貝殻から作られ、岩絵具はその名の通り鉱物を砕いて作られる。それらもまた共に粒子なのである。そして、彼女の場合、この粒子が画面を(すなわち視界を)覆うという構造は作家自身が体験したホワイトアウトと重なるものでもあるのだ。"水と空気、このあまりにも当たり前のように在るために、ほとんど注意を引くことのない存在が、私達の存在を保証している。この世の始まりは「水と空気が与えられたとせよ」という神話から始まったのだ。生命現象は、水と空気、それに光も加わって発生した。どうしてそのようなことになったのか、については偶然という神が存在した、とでも言っておくしかない。太陽系の中で、水と空気が保たれている惑星があって、おまけに太陽から適度の距離にあって、たまたま温度が生命発生の条件に適していた。そんな惑星なら、この広い宇宙の中にもう一つぐらいあってもよさそうなものだが、見渡すかぎり、似たような惑星はひとつとして見つけることはできない。このありがたくて不思議な水と空気は、海となって私達の前にある。私は海を見る度に、先祖返りをするような心の安らぎを覚える。そして、私は海を見る旅に、出た。"
(Between the Sky and the Sea,H 41cm x W 31.8cm x D 2cm,Chiho Yonemushi,2021)
17世紀ー18世紀のドイツの哲学者であるゴッドフリート=ライプニッツはこの世界がモナドと呼ばれる無数の単子によって構成されていると唱えた。 彼の理論ではこの単子には同一のものがなく、それぞれに影響関係もないが、それらが予定調和的に動くことで世界のあらゆる物事はうつり変わっていくのだと唱えている。 現代科学の発展からも明らかなように彼のこうした推論は誤りだったとわかる。しかし、同時に科学では原子や素粒子など非常に小さな粒という概念によって世界が構成されているとこともまた事実だ。 もっともこうした認識や定説もまた常日頃変化していることを忘れてはいけないが、仮に世界が無数の粒子の集合で在るなら、杉本の海景も、米蒸の描く霞がかったイメージも、視覚では捉えられない現実を捉えようとする行為であると言えるのではないだろうか。私たちの眼前には依然として水平線のような虚構の境界が存在している。 その一方で、世界は視覚では認識できない粒子の活動の総体でしかないという、現実世界の物理的な構造を前に、私たちはどのようにしてもう一度、世界の輪郭を捉え直すことができるだろうか。著者
HA.
実際には重力があり、上下は認識ができるはずだが、視覚情報による空間把握が、ホワイトアウトによって混乱し方向感覚が欠損することで、 真っ白な空間の中に自身が浮かんでいるような状態、もしくはミルク色の海に落ちたような感覚が彼女を襲ったのだろう。それは、自身の生命に関わる恐怖体験であったとともに、認識不可能で無限に拡張する空間、上下も左右もなくただ漠として広がり続ける空間という概念の体験でもあったはずである。この体験は、彼女にとって世界のさまざまな境界を曖昧にさせた。作品では、都市や森林や海などさまざまな風景が描かれ、近景ははっきりと遠景になるほど霞がかっていく。都市では奥に広がっていると思われるビル群が、森林では森自体の深さが、そして海では地平線が喪失している。都市や森林では、その空間の広さや大きさが曖昧になっているのに対し、海景では、水平線という空と海の視覚的な境界概念が曖昧になっている。”1メートル先が見えず、見えるものすべてが真っ白で、方向感覚を失ったような気がしました。自分がまっすぐ立っているのかどうかもわからない。まるで宇宙空間に放り出されたような感覚です。”
(The gap between the sky and the sea,H 72.7cm x W 91cm x D 2.7cm,Chiho Yonemushi, 2019)
上記の通り、彼は本作品シリーズにおいて、空気と水という生命にとって根源的な要素を捉えることを試みている。そうして捉えられた波の細かな表情や空気中の粒子を捉えたような空気の雰囲気は、 米蒸の作品の不明瞭さとは対照的でありながらも、世界の真実を捉え、表現しようという点において類似しているとも言える。また、杉本はいわゆる銀塩プリントの手法によって作品を制作する。これはフィルムに映し出されたイメージを暗室にて印画紙にプリントするものである。これは銀粒子の酸化還元を利用したプリント方法であり、写真によって独特な粒子感を見てとることができる。つまりこのイメージは言わば粒子の集合なのである。これに対し、米蒸が用いる胡粉は貝殻から作られ、岩絵具はその名の通り鉱物を砕いて作られる。それらもまた共に粒子なのである。そして、彼女の場合、この粒子が画面を(すなわち視界を)覆うという構造は作家自身が体験したホワイトアウトと重なるものでもあるのだ。"水と空気、このあまりにも当たり前のように在るために、ほとんど注意を引くことのない存在が、私達の存在を保証している。この世の始まりは「水と空気が与えられたとせよ」という神話から始まったのだ。生命現象は、水と空気、それに光も加わって発生した。どうしてそのようなことになったのか、については偶然という神が存在した、とでも言っておくしかない。太陽系の中で、水と空気が保たれている惑星があって、おまけに太陽から適度の距離にあって、たまたま温度が生命発生の条件に適していた。そんな惑星なら、この広い宇宙の中にもう一つぐらいあってもよさそうなものだが、見渡すかぎり、似たような惑星はひとつとして見つけることはできない。このありがたくて不思議な水と空気は、海となって私達の前にある。私は海を見る度に、先祖返りをするような心の安らぎを覚える。そして、私は海を見る旅に、出た。"
(Between the Sky and the Sea,H 41cm x W 31.8cm x D 2cm,Chiho Yonemushi,2021)
17世紀ー18世紀のドイツの哲学者であるゴッドフリート=ライプニッツはこの世界がモナドと呼ばれる無数の単子によって構成されていると唱えた。 彼の理論ではこの単子には同一のものがなく、それぞれに影響関係もないが、それらが予定調和的に動くことで世界のあらゆる物事はうつり変わっていくのだと唱えている。 現代科学の発展からも明らかなように彼のこうした推論は誤りだったとわかる。しかし、同時に科学では原子や素粒子など非常に小さな粒という概念によって世界が構成されているとこともまた事実だ。 もっともこうした認識や定説もまた常日頃変化していることを忘れてはいけないが、仮に世界が無数の粒子の集合で在るなら、杉本の海景も、米蒸の描く霞がかったイメージも、視覚では捉えられない現実を捉えようとする行為であると言えるのではないだろうか。私たちの眼前には依然として水平線のような虚構の境界が存在している。 その一方で、世界は視覚では認識できない粒子の活動の総体でしかないという、現実世界の物理的な構造を前に、私たちはどのようにしてもう一度、世界の輪郭を捉え直すことができるだろうか。著者
HA.